ホークス編著『日本遠征記』の編集と出版
1852年3月、ペリー提督は日本開国のための特命全権公使兼東インド派遣艦隊司令官に任命された。ペリーは与えられたこの任務が、歴史的重要性を持つものだと思っていた。ペリーを日本に派遣したフィルモア大統領自身がペリーに対して、日本開国は世界で最も若いアメリカに神が与えた義務であり、神聖なる使命であると意気込んで言った。当時のアメリカ海軍では将官職がなくペリーは最高位の海軍大佐であったが、海軍大佐の中で先任者に特別に授与される
commodore(提督と一応訳するが、現在は将官以上を提督〈admiral〉と呼称)
の称号をもっていた。プロの外交官でない武官のペリーが日本開国のための特命全権公使に任命された意味は大きい。アメリカではヨーロッパ諸国との外交交渉では建国以来文官の外交官(大使・公使)
を派遣するのが通例だったのに、日本との交渉に武官のペリーを選んだのは日本の頑強な鎖国政策のせいであった。武士が支配階級の日本は文官支配の中国・朝鮮と違い、二百数十年間も武力をもって鎖国を維持していたので、幕府との交渉には武力衝突も懸念されていた。アメリカでは以前に非ヨーロッパ地域との外交交渉に武官を起用した例もあった。それに当時の海軍軍人は、陸軍軍人に比べて外交交渉の教育も多く受けていた。
完璧主義のペリーは前任者が日本開国に失敗したことを繰り返さないため、日本開国のための遠征準備のため8か月間も慎重に時間をとって事を進めた。航海に必要な海図は鎖国日本と唯一交渉のあったオランダから3万ドルの大金を支払い入手した。また日本に関する書籍も可能な限り収集して琉球に到着するまでに読破した。これらの本の中には、日本で国禁の地図を入手したとして国外追放されたシーボルトの著書『ニッポン』やケンプフェル著『日本史』などが含まれていた。ペリーは後日遠征の記録を出版する際に、これまで知られている日本についての情報の誤りを訂正し直接見聞によるより正確な情報をも併せて出版するという意図もあった。そのため遠征隊に参加させる士官は、米墨戦争当時の部下で気心のわかった者の中から厳選した。
1852年12月22日、大西洋上でペリーは遠征隊に命令した。遠征中の個人のメモや絵などは、すべてペリーに手渡すこと。遠征記の公刊が許可されるまでは、政府の所有物となり返還されない。艦隊の動向について、本国の公刊物へ通信することを禁じ、又友人あての私信を介してのこのような報告をする事も禁止する、という海軍長官の命令を公示するための一般命令を発した。艦隊の動向についての情報、その規則、処罰などに関しては、いかなる新聞にも洩らしてはならない。遠征に関するいかなる情報も外部に漏らさないための秘密保持を徹底させていた。
その上でペリーは艦隊の全士官を集め、遠征記の公刊のために必要な情報の収集を手伝うように指示した。水路、気象ー海流、海軍施設の軍用・商業用の利用状況、軍事、地質及び地理、地球磁気、民俗資料、芸術関係と衣服、各民族の信仰、病気と衛生上の慣例、農業、海藻、植生、昆虫、鳥類、動物、貝類、魚類等の21の項目についてのリストを提示し、余った時間をその調査に使うようにも命じた。この種の情報は、漏らさず報告書として提出するように士官達に厳命した。当初ペリーと海軍省は、各専門の研究者から構成される調査団を同行させる計画も考えていたがその案と予算が政府によって却下されたので、部下の士官と遠征に参加を許された民間人の医師・牧師などで科学的調査に心得のある者を活用した。
情報収集のために、画家のウィリアム・ハイネと写真家のエリファレット・ブラウン・ジュニアの2人の民間人が乗船を許された。ハイネは、日本をはじめ、寄港した東洋の国々の風物や植物の写生画を精力的に描いた。ブラウンは銀版写真を何百枚も撮りまくった。そのうちの2、30枚のハイネの絵は、帰国後出版された日本遠征記の中で、きわめて効果的に用いられている。また上海では民間の旅行家で著名な文筆家として知られていたB・ベイヤード・テイラーに会ったが、テイラーの遠征隊への参加を懇願されて艦隊の遠征記録係として旗艦サスクェハンナ号に乗り込ませた。
ペリーの日本遠征隊は日本開国のための単なる外交使節団ではなく、遠征中に訪問した世界各地の科学的調査も実施していて、あたかも学術調査団の性格も兼ね合わせていた。ペリーの日本遠征より半世紀前の1798年ナポレオンがエジプト遠征した際、多数の学者を伴いロゼッタ石の発見という歴史に残る学術上の収穫があった故事を意識したのかも知れない。事実1853年1月10日、ペリーはアジアへの航海中にナポレオンがイギリスによって流刑にされたアフリカの西の海上にある孤島セントヘレナ島に寄港した。その際、ナポレオンが幽閉されていた住居跡を訪ね深い感慨に耽ったこともあった。ペリーは東アジアに到着した後、沖縄・小笠原・台湾北部などの調査を命じている。将来アメリカの戦略上沖縄を領有することがある時に必要な資料の収集をペリー自身が考えていたのかも知れない。
ところでその調査報告は、今日でも150年前の日本・琉球・東アジアなど世界各地の人文・社会・自然環境の研究にとって貴重な資料である。たとえば琉球では去る沖縄戦で破壊された沖縄本島中部の中城城址(2000年、首里城と共に世界遺産として登録された)を戦後になって復元修理した時に、ペリーの島内調査隊が作成した城址の図面が参考資料として大いに役立ったといわれる。また、遠征中に沖縄を襲った台風の観測データも沖縄における初の科学的な観測データとして、気象学の研究者にとって貴重な資料となっている。
遠征記記述の資料となったものは、ペリー自身の日記・覚書・公式書簡、および士官(アダムズ中佐,
副官コンティ大尉, 副官ベント大尉)、その他の随行員(旅行家テイラー、従軍牧師ジョーンズ、ペリーの息子オリヴァー)などの日記とメモ、調査報告書、多くの地図や海図、ハイネの挿絵、ブラウンの銀版写真などが、ペリー自身の厳重な検閲を受けてホークスが編集した。ただし、ペリーの遠征隊に参加した全員に命じた日記・覚書類の提出要請に従わなかった者が何人かいた。ペリーの遠征中の隊員に対する厳格な態度やペリー自身が安息日をあまり守らなかったことや琉球王府・江戸幕府に対する交渉の姿勢にも批判的であった民間人のウィリアムズ博士(遠征の首席通訳官)は報告書を出したものの、師自身の心情を吐露した日記を頑として提出しなかった。そのウィリアムズ師の日本遠征の日記は、やっと1910年に出版された。
ペリーは文筆の才に乏しいと自覚して、集められたこれらの膨大な資料を駆使しての遠征記を執筆する編著者を探した。当代アメリカの文筆家として、彼はW・アーヴィング、N・ホーソーン、B・テイラーなどが候補に挙げた。特に名作『緋文字』で有名になったホーソーンがイギリスのリバプールで米領事をしていたので、リバプールを訪れ遠征記の編著を直接懇願したが、ホーソーンは公務多忙を理由に断ったようである。そこで、白羽の矢がニュー・ヨークのカルバリー教会の牧師F・L・ホークス師に立った。ホークスは若い内科医のロバート・トームズ医師と共に遠征記の編集と執筆をした。両人ともに、すでに著書が幾つかあり、伝記物を書いた経験をもっていた。
こうして公刊された『日本遠征記』の原著名は、Francis
L. Hawks, D.D.,LL.D.,Narrative of
an American Squadron to the China Seas and Japan ... etc.,3 vols, Washington,
1856. (『アメリカ艦隊の支那海域及び日本への遠征記』) 。三巻からなり、1856年合衆国議会版として出版された。同艦隊の遠征中(1852年11月〜55年1月)
に、同艦隊が寄港した世界各地の風物を詳細に記述してある。
第一巻がいわゆる「本記」で、ペリーが乗った蒸気艦ミシシッピー号が米国東部の軍港ノーフォークを出港してから、日本遠征を終えて蒸気艦パウハタン号がマカオに戻るまでの日々の記録である。航海、条約交渉、各地の人文社会・風物などが精細に描かれており、最も貴重な一般的遠征記録である。第二・第三巻は付録である。第二巻は日本・琉球をはじめ、航海の途中に寄港した各地の農業、鉱物、動植物、気候、地質、風俗習慣、地図、海図などに関する自然科学および各種の調査報告をまとめたものである。第三巻はジョーンズ師の黄道帯についての天文学上の観測記録および水路図となっている。
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